わがままと趣味、自己中と思いやり

どこまでがわがままでどこからが思いやりか、どこからが自己中でどこからが献身的か。

これを履き違えると自己中を思いやりと言ったり、趣味を献身と言ったりして、めちゃくちゃな持論を通そうとします。

いくら時代がすすみ個性やユニークさが大切と言われるようになっても、自己中心的な考えを正当化するために使われては本末転倒です。

そうなってしまうなら古き良き時代の方がよっぽど良かったでしょう。

何事も行動を起こすときは、その心があり、モチベーションとなる原動力があります。

それを動機とも言うのですが、汚い動機を必死で正当化するために、あれこれと個性やキャタクター、独自性などを引き合いに出して曲がった動機を肯定しようとする輩がいます。

多くの人はそれに騙されたり、言い負かされたり、めんどくさくなり、気づかぬウチにそういったものに巻かれていることすら多々あります。

しかし、それで良いわけはありません。

歪んだ動機を放置して、見て見ぬ振りをするならどうなるでしょうか。

その社会は育たず、文化は薄くもろく、人間関係は育たず、その家族も薄く、思いやりも受け取れず、何事も面倒くさがりながらやり、心の底から感動するということがその世間から見出せなくなります。

歪んだ動機でも感動するという人がいるかもしれませんが、それはその人の本心でしょうか。表情をいくら取り繕ってもその目は嘘をつけません。目は心の窓というのは本当だと思います。

若いウチはいいかもしれませんが、年を重ね、歪んだ動機を誤魔化し続けるほど、その目に映る輝の差は明確に現れてきます。

だから歪んだ動機を正当化したり、個性やユニークさを履き違えるようなことを続けるのは無理があるということです。

こんなことを続けるのは私は耐えられませんし、その場しのぎの快楽でごまかし続けるのも愚かです。若いウチはある程度できますが年を重ねるほど苦痛のほうが増してきます。こんなことを知恵とは言いませんし、退廃と言った方がしっくり来ることさえあります。

前置きが長くなってしまいましたが、このまま行くと取り返しのつかない事になると思う事もあるので厳しめに書かせてもらいました。

 

自己中と思いやり。わがままと趣味

トイレに行きたくなった人に対して、トイレが終わるまで待ってあげるのは思いやりでしょうか?これは思いやりです。

太っている人が追加の注文をしたがり、財布事情を圧迫するのをわかってながら追加のおかわりをさせることは思いやりでしょうか?これは思いやりではないはずです。

暇でやることがない人がいて、目の前で転んだ人の荷物を一緒に拾ってあげるのは思いやりでしょうか?これは思いやりです。

たくさん服を持っていて、また欲しい服が見つかり、タンスは溢れんばかりでも、その人に服を買い与えるのは思いやりでしょうか?これは思いやりとは言えません。

ある家庭で趣味のスポーツだからと言って、たくさん洗濯物を出し、洗濯の手伝いを全くしないなら、その趣味を続ける資格はあるでしょうか? ないでしょう。これは趣味と言いつつ、ただわがままを通してるだけです。

 

こういったわがままや自己中を正当化するとそれは仕事でも反映されます。

ある教師が生徒を注意するときに、男子には毎回厳しい態度で言い、女子には毎回甘い態度で言います。この教師は正しいでしょうか。もし女子に気に入られたいから甘くしているなんて考えがあればあまちゃんです。はっきり言うと一度やめて出直してきた方がいいです。

ある上司がまだ十分乗れる車を買い替えたくて、自分の趣味のために色んなオプションに費用をかけたい人がいます。
その上司が贅沢な車のためにノルマをあげたくて、部下にやらせる仕事を増やし、厳しい仕事を課すなら、その上司は正しく働いているでしょうか?この上司は上司たる資格がありません。
自分よがりの趣味嗜好をさせたいならそれは自分自身のみで背負うべきで、そのことで部下に一切重荷を負わせてはならないはずです。

上の例は一例ですが、同様の考えを心に隠し持った人はまだまだ世の中にたくさんいるはずです。

本当に歪んだ動機を正当化したり、わがままや自己中をまかり通すような息苦しい世の中は何とかしなくてはいけないと思います。

ただそのためには自分のプライドやしょうもない欲は捨てる覚悟は必要です。

そんな志の人が増えてくれればとも思います。

 

 

 

 

 

 

 

閲覧ありがとうございました。

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