身体は大切に使いましょう。

投稿日: カテゴリー: ヘルスケア聖書

基本的に身体は大切に扱うべきです。

どこか世間には身体を酷使することがカッコいいという風潮があります。

でも身体を酷使することは目的を達成するための鍛錬であって、身体をイタズラにいじめるのとはまた意味合いが違います。

 

身体を酷使し続けたら辛くなるので「このままのやり方では続けてはいられない」と思うでしょう。

ニュートラルな考えでいられたらはそれに気づきます。

しかし身体を酷使することを強要され続け、身体を酷使して働くことを肯定するようになると「酷使するのはしょうがないことだ」、「自分の頑張りが足りないからだ」と自己嫌悪に陥り、次第に酷使されていることへ疑問を持たなくなり、いつしか酷使を肯定して自ら不本意のうちに倒れることになりかねません。

 

世間には身体は自分のモノだという考えがあり、自分のモノだから好き勝手に使っていいという考えが浸透しているのかもしれません。

果たして身体は本当に自分のモノでしょうか。

確かに身体の使い方は本人の意志に任されている部分が多いです。

しかし身体は自分のモノだからと雑に扱って良いようなものでしょうか?

そこで自分の身体をどのように手にいれたかを考えるとわかりやすいと思います。

自分の身体はどこかのメーカーに注文して自分で買ったモノでしょうか。

そんなことはなく、実際にモノを買うように自分の意志で身体を手に入れた人はいないでしょう。

地球にある自然と同じように気付いたらあったものだと思います。

 

基本的に身体は贈り物です。

才能や性分のように、一人一人が授かったものです。

もっと言うと、身体は神様から贈り物と考えるべきでしょう。

贈り物を大切に扱わないとどうなるでしょうか?

大切な人へ贈り物を送った時に、相手が贈り物を雑に扱うさまを見てその送り主は心を痛めるに違いありません。

神様が人に身体を贈って、その身体を人が雑に扱う様を見たら、神様も心を痛めるはずです。

だから身体を雑に扱うのは美徳ではないんです。

たとえ身体にムチ打つことがあるなら、それは鍛錬であり、目標を達成するための苦肉の策なのです。

目指すところは出来る限り身体を大切にしながらも目標を達成することです。

贈り物は大事に使ってこそ送り主からも喜ばれます。

だから様々な場面で身体を大切に扱う方がいいとも考えられます。

運動する時、仕事をする時、何かを表現する時、後世に教えを伝える時も、身体を大事に扱うことを放棄してはいけないんです。

我々は身体を大切に扱い生きていく方法を探求していかなければならないはずですが、それを忘れかけてしまうことが多いのもまた事実です。

身体は大切に扱った方が良いとは直感的にわかっていると思うんですけどね

 

ただし、身体を大切に扱うあまり、ひたすら休んでダラけるのはまた違います。

いくら大切にすると言っても、贈り物を全く使わなかったら贈り主はがっかりします。

神様もダラけて何もしない人間に対して心を痛めるでしょう。

ご存知の通り人間の身体の可能性は無限大です。その無限の可能性の贈り物を使わないのは正に宝の持ちぐされと言えませんか。

 

自分の体は完璧じゃないと思う方がほとんどだと思います。

体に不満があったとしてもそれが克服できるように願い求め、努力しましょう。

神様は正しい目的のためなら体をベストに整えるために手を差し伸べてくれるはずです。

 

身体を大切に扱うことについて、身近なところで考えてみたいと思います。

社会について考えてみますが、今の社会は身体を大切に扱う実践をしているでしょうか。

今の社会の上層部から、身体を大切に扱えるようにとたゆまず努力して、身体を大切に出来る環境作りに努めている、と言えるでしょうか。

現状はまだまだであると思います。

 

日本では特に複雑な業務が多く、複雑な業務に更にスピードを上げようとする傾向があります。

複雑でややこしいままスピードを上げたら身体への負担が増します。

ややこしいことをすると、頭の中も複雑になり、身体の動きもあちこちと飛んで複雑になります。、その滅茶苦茶で理不尽な動きにスピードを上乗せさせたら不自然な身体の使い方(物理の法則に反した使い方)を増長させて間違いなく負担が増えるからです。

スピードを上げてこのまま突っ走るとおかしくなる。そう感じるなら今度はシンプルにしていかなければいけません。

シンプルにするということを言い換えると、無駄を無くすということになります。

思い切って捨てるべき部分は捨てるんですね。

その捨てるべき部分とは、人のしょうもない欲、エゴエゴしい部分、一部の偏った嗜好やわがまま、過剰な心配事です。

正直に言うと、まだまだバランスを欠いた欲や、エゴエゴしさ、偏ったこだわり、心配が心配を呼ぶような過剰な心配に心が持っていかれがちです。

思い切って捨てるということが中々出来ません。

これは会社で働く人の働き方の大半について言えるはずです。

(もちろん公務員の方も当てはまると思われますが)

その今の会社の働き方で惰性していても変わらないと思います。

惰性を抜け出すには、勇気を出して会社の働き方を変えて行くことにもなるでしょう。場合によっては職場を離れることになるかもしれません。また、事業を起こすことになるかもしれません。

気づいた人がより身体を大切に扱いながら目標を達成しようと、その方法を探して実践し、今の惰性から抜け出そうとしなくてはなりません。

 

 

身体を大切に扱うにしても、その目的が尊くなければ、やはり本末転倒になります。

人生の目的については意見が割れるかもしれません。

人生の目標設定を正しくするためにはどうするべきか。

あえてそれを一言で言うならば、神様の思い(御心)を知り、神様の思い(御心)を実践すること、と言えるでしょう。

神様は何故、人間を作ったのか。そこまで考えて知ろうとした時、人生の目的が見えて来るはずです。

身体にムチ打って鍛錬することが必要な時とは、この神様の思いを実現するために身体を使う鍛錬の時でしょう。

逆に、いたずらに身体を苦しめて、人が苦しむ姿を見て満足するのはサタンのすることです。

人生の目的には希望がなければいけません。

 

今世の中でやっている仕事は果たして神様がやって欲しいと思っているような仕事でしょうか。

恐らく神様の望みとは程遠いものが多いでしょう。

なのでそれらに身体を酷使して、身も心もボロボロにしてまで働き続けているのは神様も歯がゆいでしょうし、人間もふと我に返った時に辛いことに気づくはずです。

日本人の思考の中には仕事がかなりのウェイトを占めています。

だからその辛い仕事で人生を食いつぶされないためにも身体を大切に扱う術を探して方法を積み上げるべきだと私は思います。

要するに仕事での負担を減らして、その余力でもっと深く取り組めることを見つけて、深い感性を養って欲しいという思いがあります。

 

身体を大切に扱いながらも高いパフォーマンスが出来るなら、それは頭の中の回転をスムーズに早くすることになります。

逆に言うと頭の回転が早くスムーズでないと身体のスムーズな扱い方も出てこないからです。

スムーズな身体の扱いとは、身体を大切に扱うことです。

人間の身体ならマシンのハード(外側)に当たるでしょうか。

ギアが引っかかっているマシンはすぐに故障します。逆にギアがスムーズならマシンは回転を上げても壊れません。

人間の頭ならコンピュータの回路でしょう。

回路(IC)が混線ばかりしていれば、そのコンピュータの動作は遅くなりエラーも多くなります。動作が遅いからと苛立って混線したまま出力を上げていけば遂には回路はオーバーヒートしてしまいます。

この例えをとても簡単に言うと、回路の性能(頭の回転)を上げて、ギア(関節、筋)をスムーズにすると良いと言えるでしょう。

頭を健全に使い、身体も健全に上手に扱える方法を築くなら、それはバランスの取れた生き方を実現していくことにもなります。

ご参考に前回の投稿も御覧くださいませ。

 

人によっては身体を大切に扱うことを機械論的に技法ばかりを人に勧めてしまうことも考えられます。でもそこに愛がなければやはりその教えも虚しいものです。

私もついつい理屈っぽくなり、やり方にこだわってしまうところがあるので気をつけなければいけません。

 

愛を持って身体を大切に扱う働き方が広まればと願っております。

 

 

リンク
 (今回、神様のお話が多く出ていますが神様の御心のお話は記事では紹介しきれません。聖書から読み取ることが必要になります。リンクでは価格的にも手に入りやすいkindle版の口語訳聖書をご紹介しております。)
閲覧ありがとうございました。

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